岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

飛驒の里誕生物語(第四章)

第四章 集落博物館を作れ

消えてゆく民俗文化を救おうとする人々がいた。
やがて集落博物館構想は実現へ動き出した。

飛驒民俗館には、つぎつぎと住む人のいなくなった民家や使われなくなった民具の情報が寄せられた。長倉は「このまま捨ておくならば、家も民具も我々の生活の歴史も消え去ってしまう」と訴えた。

そのころ御母衣ダム(岩を積み重ねるロックフィルダム)に使われる岩の採掘のためにダイナマイトなどの火薬を運ぶトラックがあった。ある日、長倉は賛同する仲間とともにそのトラックに便乗し、採掘場に近い村へ向かった。そこには民家が解体され、輸送されるのを待っていたのである。荷を届けたあと荷台が空になったトラックがふたたび村に着いたところで、解体した民家を積み込んで帰ってきた。そして以前野首家が保管されていた空き地に運び込んだ。 このことを後で知った岩本は「もし事故があったらどうする。公務中でなければ犬死にだ」と、長倉の行動に忠告したという。また観光施設化が進んでいた飛驒民俗館の小さな施設は、すでに受け入れが限界になっていた。しかしあきらめるわけにはいかなかった。

昭和41年(1968年)、長倉は飛驒各地の特色ある民家・付属建物を調査した資料を添えて民俗村構想趣意書を高山市に提出したが、事態はようとして進まなかった。昭和42年に新しく市長になった元仲辰郎は農家の出身で、飛驒の古い農山村の民俗文化に強い思い入れがあった。元仲は行政の側から長倉の一途な情熱に応えることに決めた。そして長倉は昭和43年に再度趣意書を提出。市民や市の職員からの民俗資料の保存を求める声の高まりに押され、昭和44年3月、ようやく集落博物館構想は市議会を通過した。

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西岡家に展示されている移築直前の写真からは、廃屋になる寸前の様子がうかがえる。
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長倉三朗が描いた集落博物館の構想スケッチの1枚を、市のスタッフがトレースして着色したもの。

ところが思わぬ事態が発生した。市議会は建設は承認したが、税金による建設には反対したのである。そこで市は独立採算を旨とする、企業会計による資金調達を行うことにした。当時財政課長であった後の市長平田吉郎は、これが自治体の第三セクターによる経営のはしりになったと述懐する。過去に例のない方法で、しかも採算が合うかどうかも分からない市の事業に、金融機関が融資するのは難しいことだった。まだ観光ブームもなく、高山も全国的に今ほど知られていなかったのである。

そこで東京で活動する建設のコンサルタントを雇い、その計画書をもって資金調達のための権威作りをしようと提案があった。しかし観光課内部や教育委員会からは、その計画作りの任には長倉三朗が最もふさわしい、と反対意見が出た。長倉は資金調達のために一計を案じた。それは、文化財保護の専門家、学者から民俗村建設の具申書への賛同をもらい、資金作りの信用を得るというものであった。お願いしたのはかねてから縁のあった祝宮靜をはじめとする文化庁文化財審議委員の藤島玄次郎、服部勝吉、今和次郎、浜田庄司、宮本馨太郎の各氏だった。こうして元仲の強いリーダーシップと長倉の情熱、それを支える市の職員たちの努力によって、当時のお金で2億円の融資に成功した。

※記載の住所は高山市および飛驒市が合併する前のままとなっています。
現高山市(高山市・久々野町・国府町・宮村・清見村・朝日村・高根村・上宝村・荘川村・丹生川村)
現飛驒市(古川町・神岡町・河合村・宮村)

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