消えてゆく民俗文化を救おうとする人々がいた。
やがて集落博物館構想は実現へ動き出した。
飛驒民俗館には、つぎつぎと住む人のいなくなった民家や使われなくなった民具の情報が寄せられた。長倉は「このまま捨ておくならば、家も民具も我々の生活の歴史も消え去ってしまう」と訴えた。
そのころ御母衣ダム(岩を積み重ねるロックフィルダム)に使われる岩の採掘のためにダイナマイトなどの火薬を運ぶトラックがあった。ある日、長倉は賛同する仲間とともにそのトラックに便乗し、採掘場に近い村へ向かった。そこには民家が解体され、輸送されるのを待っていたのである。荷を届けたあと荷台が空になったトラックがふたたび村に着いたところで、解体した民家を積み込んで帰ってきた。そして以前野首家が保管されていた空き地に運び込んだ。 このことを後で知った岩本は「もし事故があったらどうする。公務中でなければ犬死にだ」と、長倉の行動に忠告したという。また観光施設化が進んでいた飛驒民俗館の小さな施設は、すでに受け入れが限界になっていた。しかしあきらめるわけにはいかなかった。
昭和41年(1968年)、長倉は飛驒各地の特色ある民家・付属建物を調査した資料を添えて民俗村構想趣意書を高山市に提出したが、事態はようとして進まなかった。昭和42年に新しく市長になった元仲辰郎は農家の出身で、飛驒の古い農山村の民俗文化に強い思い入れがあった。元仲は行政の側から長倉の一途な情熱に応えることに決めた。そして長倉は昭和43年に再度趣意書を提出。市民や市の職員からの民俗資料の保存を求める声の高まりに押され、昭和44年3月、ようやく集落博物館構想は市議会を通過した。