飛驒の古い民俗文化はつぎつぎと消えていった。そんななか野首家の保存は画期的な出来事だった。
開館してすぐの9月15日、当時の文化庁文化財審議委員だった祝宮靜が、高山祭屋台の文化財保護認定審査に高山を訪れた時のことである。祝はそのついでに飛驒民俗館を見学したが、そこで見た橇(そり)のコレクションのすばらしさに驚き、長倉に国指定文化財申請をするよう奨めた。長倉はさっそく資料を集め、整理して文部省に申請した。翌年6月9日長倉の収集した橇のコレクションは、国指定重要有形民俗文化財に認定された。その後も飛驒民俗館は昭和35年博物館相当施設に認定され、昭和38年養蚕コレクションが国指定重要有形民俗文化財となった。 飛驒民俗館を見た祝は、そのおり長倉にこんな話をした。「日本にもスエーデンのスカンセン民俗博物館のように、その土地の民俗文化を一堂に集めたものができないか」。これが集落博物館「飛驒の里」構想のきっかけとなった。 その頃、国のバックアップで日本各地に歴史民俗資料館設置が始まっていた。しかし、その多くは民俗資料の保存を目的としたものがほとんどで、一般に公開する施設は少なかった。 長倉は自分の考える集落博物館を、一般に公開する施設として構想した。それは貴重な文化財を保護しながら、観光施設として入館料を取り、その利益をまた文化財保護に役立てていく、というものだった。また公開することで、民俗学を身近で分かりやすく教育する施設としての役割をも果たさなくてはならないとも思っていた。
一方、飛驒ではますます過疎による家屋の無人化が進み、村落は荒廃していった。長倉の構想する集落博物館の実現に、もう一刻の猶予もなくなっていた。また、古くからの農山村の生産・生活用具は使われなくなり、うち捨てられてしまっていた。“ゴミを集めて金を取る”。収集を続ける長倉たちにこんな陰口もたたかれていた。しかし長倉の生活道具を作る職人としての目は、注目されることのなかった古い用具の価値も見抜いていた。なかでも木の又の道具コレクションは、ユニークかつ貴重な民俗学資料である。こうして長倉が収集した989点に及ぶ飛驒の農山村生産用具も、橇や養蚕に続き、昭和50年に国指定重要有形民俗文化財に指定された。
昭和37年、飛驒民俗館に高山市片野町にある県指定重要有形文化財・野首家の寄贈の申し出があった。野首家は元禄8年(1695年)の検地帳に記載されており、今から300年以上前に建てられた飛驒に現存する最も古い民家である。しかし市には移築予算がなく、市議会もこれを否決し、引き受け計画は暗礁に乗り上げた。長倉の談判にようやく岩本市長は「これを市で保存しなければ、将来悔いを残す」と応じた。ともかく解体輸送費用を捻出しなくてはならない。長倉は市長保証で十六銀行から15万円を借り入れた。その資金で野首家を解体、民俗館そばの空き地に運び一時保管した。しかし、復元の資金はめどが立たず、野首家はそのまま放置されていた。そこで長倉は大胆な行動に出た。東京、愛知、大阪、京都、そして岐阜県下の陶芸家や画家などの友人知人、そして師や先輩まで訪ねていき、野首家の民俗文化財としての価値を説いて回り、保存に賛同を得て、彼らの作品を寄付してもらったのである。市ではこうして集まった作品を競売にかけ、その売り上げで復元の資金を確保した。こうして昭和41年3月1日、野首家が公開された。協力者は加藤唐九郎、棟方志功をはじめとした74名に及んだ。復元された野首家には、感謝をこめて74名の氏名を記したプレートを掲げている。