岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

飛驒の里誕生物語(第二章)

第二章 飛驒民俗館の誕生

御母衣ダムに沈む荘川村に建っていた若山家を多くの困難の末、高山に移築し、飛驒民俗館が誕生した

そんなおり元荘川村長若山作右衛門から、御母衣ダムに沈む自家を高山市へ無償で譲渡したいと打診があった。当時の高山市助役政井捨吉が若山と懇意だったからである。政井も合掌造りが飛驒から消えていくことに心を痛めていたひとりだった。若山家は立派な合掌造りで、しかも入母屋合掌から切妻合掌へ移行した過程を示す最も古いものだったのである。市民の声にも押され、高山市は若山家を移築することにした。長倉三朗がその総責任者を依頼され、飛驒民俗村にかかわる始まりとなった。 移築場所は市の所有している西之一色町の土地に決定した。ここは当初観光ホテルを建てる予定の土地だった。これといった産業の少ない高山にとって、観光客の誘致は大きな願いだったのである。当時の市長日下部礼一には、若山家を単なる民俗遺産としてではなく、高山観光の目玉にとの思いもあった。当時の高山は地財法の適用を受けなければならない貧しい自治体だったのである。

移築は困難な作業の連続だった。当時の軽岡峠は狭く曲がりくねり、一本木の大梁を輸送することができずやむなく切断することになった。そのため旧若山家を支える大梁はこの二本を継いだものである。建物ができても室内の復元が材料不足ではかどらず、当時市役所職員だった小鳥幸男の住居から壁板、中透障子を譲り受けた。また、橇や農山用具を収集し屋内に陳列することにした。長倉は移築と資料収集に奔走した。彼には若山家を復元するにあたって信念があった。復元とともに、そこに飛驒の農家の生活を再現したい。家の前には水を引き、囲炉裏には火を焚く。農山用具も陳列ケースにおさめるのではなく、手に取って暮らしを感じてもらいたい。これは後に、「生きた博物館(Living Museum)」という飛驒の里のコンセプトとなって受け継がれていった。(展示に関しては完成後に展示物が盗難に遭うというできごとがあり、小さなものはケースに収められる残念なことになってしまった)

当時の高山市では、こうした施設は博物館として「社会教育課」に所属するべきものであったが、先に運営していた「郷土館」は赤字続きで、そのうえさらに赤字を抱えるのではと危惧されていた。そこで「観光課」の所轄とし、利益をあげることのできる施設が目標となった。開館を控え、新市長となっていた岩本晋一郎はこの目標を担う責任者として、準備に奔走していた長倉に白羽の矢を立てた。こんなエピソードがある。岩本の注文で器を作ったときのことである。出来栄えの良さに感激した岩本夫人は、多額の謝礼を持って長倉を訪れた。ところが長倉は職人は手間賃だけもらえればいいと、すべてを受け取ることを拒んだという。欲に駆られないが、いい仕事をする。岩本にはそんな印象もあったのである。開館準備に追われていた5月25日、岩本は長倉を訪ねた。「赤字を出さない」ことを条件にした経営責任者への就任要請に、長倉はこう答えた。「何とかやってみましょう。しかしわしにも頼みがある。黒字がでて、余裕ができたらその利益は民俗館の充実に充てて欲しい」。 岩本は長倉に頷き返した。「わかった。思いどおりにやってくれ。すべてまかせる」。こうして昭和34年(1959年)7月14日、若山家は「飛驒民俗館」として開館した。長倉は窯を長男に任せ、主事として飛驒民俗館の経営と運営に携わっていった。飛驒民俗館は順調に入館者を伸ばし、開館翌年の昭和35年度年間入館者数14,934名が、10年後の44年度には年間132,052名になっていたのである。

の画像
若山家があった荘川村大滝地区。左に見えるのが若山家。
の画像
移築前の若山家。
の画像
若山家移築作業
の画像
長倉三朗(1913-1999)
の画像
当時の飛驒民俗館周辺
手前に見えるのが旧野首家、右奥が旧若山家。周辺には古い民家が個人の施設やお店として移築されてきた。
お問合せ
ページの先頭へ