戦後の高度成長が飛驒の農村村を過疎へと向かわせた。そして合唱造りがダムに沈むことに。
日本が昭和の高度成長期を迎える以前、地方の農山村は貧しい環境の中にあった。しかしそんな暮らしの中から、人々は実用的でかつ美しい建物や道具を生みだしてきた。それらは知恵と工夫に満ちており、物のない時代の庶民が厳しい自然を相手にいかに生きてきたのかをしのぶことができる。合掌造りなど飛驒の古い民家が持つ構造のすばらしさや美しさ。暮らしから生まれた民具に宿る実用の美。かつての農山村が育んできた生活の文化は、未来へ伝えていきたい大切な宝だ。しかし現在この文化は人々の生活の場からほとんど姿を消し、保存の努力なしでは私たちの目に触れることもかなわない運命にある。「飛驒民俗村」はこうした民俗文化を未来へ残すという大切な使命を持って生まれたが、ことの始まりはダムに沈むはずの一軒の合掌造りからだった。
そして土地とともに消える運命となった合掌造りの消失を惜しむ声がいつしかあがっていた。昭和31年(1956年)大野郡白川村に大牧ダムが建設される際に、沈む地区で一番立派な家屋だった太田家から高山市に寄贈の申し入れがあった。しかし市は移築資金を捻出できず、同家は名古屋市東山植物園に引き取られた。他にも奈良のあやめ池に移築されるなど、消失の危機をのがれた民家はいくつかあったが、いずれも県外への流出であった。
また沈んでいくことになった。御母衣ダムに沈む荘川村岩瀬に矢篦原家(やのはらけ・国重要文化財)があった。宝暦年間当時、飛驒三長者のひとりと言われた岩瀬佐助の家だったもので、他の二人と比べて“岩瀬佐助のまねならず”と謳われたその財力を随所に見ることができる。この民俗資料として非常に重要な合掌造りを高山市に移築することを市に進言した男がいた。飛驒で最も古い窯元小糸焼を復興した陶工、長倉三朗である。長倉はかねてより高山の祭屋台について研究著作し、高山市立郷土館の祭・陶器分野の資料委員を勤めてきた。地域に根差した民俗文化に高い関心があったのである。しかし高山市は矢篦原家の移築を見送り、この合掌造りは横浜の三渓園に引き取られていった。この出来事は合掌造りがつぎつぎ飛驒から離散していくのを嘆く人々からの声が、ようやく高まるきっかけとなった。