飛驒塗
飛驒の塗物には、堅地塗(かたぢぬり)と江戸初期に高山で発祥した飛驒春慶塗がある。しかし堅地塗を発展させた「飛驒塗」は、寛永年間(1624~44年)春慶塗とともに世に出たが、江戸時代末期には廃れてしまった。 飛驒塗は南飛驒で堅地塗から分かれ、木地に直接漆を何回か塗り、その上に簡略な文様を描いた物だった。貴族的な蒔絵に対し、実用的な器として盆・膳などに愛用された。
江戸時代初期から実用的な漆器として愛された「飛驒塗」は、同時期に世に出て現在も続く「飛驒春慶塗」とは違い、江戸時代末期に途絶えてしまいました。 小井戸稔氏は、飛驒の里に隣接する工芸集落に暮らし、工房を構え、その仕事は飛驒春慶塗、飛驒盆、螺鈿細工といった漆工全般にわたります。特に飛驒塗の素朴な味わいに惹かれ、その復活に携わってきました。現在も精力的に取り組まれている飛驒盆を中心とした「小井戸稔の世界」をご覧ください。
飛驒の塗物には、堅地塗(かたぢぬり)と江戸初期に高山で発祥した飛驒春慶塗がある。しかし堅地塗を発展させた「飛驒塗」は、寛永年間(1624~44年)春慶塗とともに世に出たが、江戸時代末期には廃れてしまった。 飛驒塗は南飛驒で堅地塗から分かれ、木地に直接漆を何回か塗り、その上に簡略な文様を描いた物だった。貴族的な蒔絵に対し、実用的な器として盆・膳などに愛用された。
厚手の丸盆に見込が朱塗り。その上に緑・黄・黒などの限られた色漆を、筆を自在に流して漆絵を描いた。飛驒塗を付した飛驒盆はきわめて素朴な平常美を備えた器である。
ちなみに高山の漆絵としては飛驒天満宮の梅漆机(「溜塗漆絵卓」高山市指定文化財)がある。弁柄漆の上に黒漆で梅文様を描いた物で、元禄三庚午(1690年)正月吉日の年号が記されている。「漆絵は文様でありながら模様を超えた美しさがあり草深い山人の所作とはいえ、東洋的審美水準に到達し、無智な工人の手から作られる確かに工芸に宿る秘密で、都市の漆芸は蒔絵で山中漆工の栄誉は漆絵で語り伝えたい」(水谷良一の著作から抜粋)
小井戸稔のもうひとつのライフワークが螺鈿(らでん)細工である。螺鈿とは夜光貝、鮑貝などを漆地に糊漆ではめ込む技法である。「螺」は螺旋状の殻を持つ貝の総称で、「鈿」は金属や貝による飾りを意味している。螺鈿の起源は明らかではないが、近東におこり、奈良時代に唐より日本に伝わったとされ、正倉院に当時の細工が現存している。貝は砥石などで板状に削り、厚い割貝のまま用いたり、薄い鮑貝の青く発光する部分を使う「青貝」の技法を用いたりする。