第5章 渋草焼
飛驒の窯のうち、全国的に最も有名な窯が渋草焼です。しかしその道のりは天保12年の創業時から波乱に富んだものでした。
・戸田柳造と曽我徳丸
当時の飛驒郡代豊田藤之進は、殖産興業に力を入れた人物でした。天保13年(1840年)瀬戸から再び戸田柳造を招き、陣屋出入り商人・中村屋七兵衛に費用を引き受けさせて、今度は小糸焼と反対側の山のふもとに窯を開きます。小糸焼では失敗した磁器製造でしたが、巣山村(岐阜県吉城郡神岡町)に良質の陶石を発見し、ついに、柳造は、飛驒国産初の磁器製造に成功します。数年後、九谷より3人の画工を呼び寄せ、ここに半官半民の渋草焼が始まります。
優れた技術者を得て、渋草焼は「飛驒九谷」「飛驒赤絵」と呼ばれ、郡代の庇護を受けて発展してゆきました。
画工のうち、曽我徳丸は特に名工であり、明治5年には日本で東京博覧会に招聘されるほどの腕前でした。
徳丸はそのまま東京に残り、その地位を築いてゆきます。明治6年のウイーン万博への出展品の製作にも携わっています。
渋草焼は柳造の死後、幕末の混乱、画工の散逸などから次第に衰退します。格調の高いものも作れなくなり、すり鉢や瓶など雑器の製造も余儀なくされてゆきます。
三輪源次郎と渋草焼(明治11~30年)
明治11年、茂住鉱山(現在の神岡鉱山)の経営者であった三輪源次郎は、酒蔵の永田吉右衛門、平瀬市兵衛、呉服の酒田長五郎と共に、衰退していた渋草焼を再興しました。源次郎は東京で活躍していた画工・曽我徳丸を再び高山へ呼びよせ、職工も整えて、再び良品を作り始めます。
いわゆる旦那衆と呼ばれるこれら出資者の莫大な資金と徳丸などの名工により、優れた赤絵や色絵磁器が生れました。
おそらく源次郎や職工たちは、当初「全国で負けないものを作ろう」との意気に燃えていたでありましょう。
しかしながら、いくら良い物が出来ても収入となって帰ってこなければ事業は長くは続きません。
やがて共同出資者の永田ら3名が脱落。また、徳丸も去ると言った具合に、暗雲が立ち込めてきます。
しかし源次郎の意地と執念だったのでしょう。そんななかでも数々の博覧会に入選し、質の高い青磁や南京写しも開発します。なお、この頃、職工の松山忽兵衛らが源次郎のもとを去り、新しく「渋草柳造窯」を立ち上げています。
一時は80人を越す職工を擁し、隆盛を誇った源次郎の渋草焼(芳国社)もついに経営困難となり。明治30年ついに独立経営に終止符をうちました。
明治30年~現在
渋草焼(芳国社)は再び幾人かの旦那衆により株式会社として再出発します。明治44年(1910年)にはロンドンにおける日英博覧会で3等賞を得るなど、素晴らしい作品を再び生み出しますが、営業的にはまたもや振るわず、ついに解散。
その後、残った職工らが経営に携わり、最終的にはロクロ師松山吉之助の息子、吉一が預かることとなり、松山家の経営で現在に至っています。
以上、飛驒のやきものの歴史をおおまかに俯瞰してきました。
次のページは「第6章 終わり」です。