岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

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飛驒のやきもの~その歴史

第4章 町人文化と窯業

江戸中期には各藩同士の交易が大変盛んとなります。

特に、北海道と大阪との交易を行っていた商人たちの「北前船」により、九州有田から磁器のうつわ(伊万里焼)が、また、瀬戸や美濃からも陶磁器が大量に飛驒に流入してきます。

「飛驒へのやきもの流入」の画像

とくに伊万里焼は日用雑器のみならず、祭りや祝宴などの「ハレ」の場での器として特別扱いされていました。

伊万里器を使った膳」の画像
「伊万里焼の鉢」の画像

さて、交通の不便さと関税の負担を原動力にして、飛驒においても地場産業としての窯業が興ってきたのは前に述べたとおりです。

「江戸時代の面影をそっくり残す高山の町並み歴史ある旧家が立ち並ぶ」の画像

ところで、初代藩主・金森長近は高山の町を京に似せて作りました。また、金森時代以降も京都との密接なつながりを持っていました。高山が小京都と呼ばれる所以です。

ここで飛驒(高山)の特殊性として町人文化の発達がクローズアップされてきます。
町人たちは材木商、あるいは酒蔵業などで大きな財をなす者もおり、莫大な財を築きました。彼らは旦那衆と呼ばれ、窯業に投資する町人も出現します。

・第二期 三福寺焼 (1820年代)
この時代以降の飛驒の新興窯には、日用雑器を焼くばかりでなく、京文化などを取り入れた、趣味性の高い上物を焼くという旦那衆の意思が明らかに見て取れます。
1820年代に高山の町人中村屋が始めた第2期の三福寺焼は、京都より陶工を呼んで作らせたもので、通常の民窯とは異なり、繊細な上物も焼かせていたといわれています。

ヨーロッパにおける東洋磁器への異常とも言える執着を見るまでも無く、ひとは洋の東西を問わず、「純白の器(磁器)」に対する憧れが非常に強いようです。 恐らく、それは白い物がたやすく手に入る現代人には実感がわかないことでしょう。 当然ながら、飛驒においても伊万里焼のような白い磁器を何とか地元で作れないかと考えられました。

・第二期小糸焼 (1830年代)
天保年間に興った第二期の小糸焼は、飛驒における磁器製造の最初のチャレンジと言えます。
第二期小糸焼は高山一之町の酒蔵業・細江嘉助と、二之町の鬢付け油商・平田忠右衛門が出資し、尾張から陶工・戸田柳造をまねいて小糸坂(高山市上岡本町)に開窯しました。作品は白泥で飾った杯洗、猪口が残っています。

「杯洗」の画像
「猪口」の画像

近年、第二期小糸焼窯跡の発掘調査が行われましたが、窯の焼け具合などから見て、おそらくは、わずか数回程度しか焼かれていない短命の窯でした。しかし、出土した陶片の中には半磁器質に近い物が出来ています。腕の立つ良品もあり、製陶技術の確かな者がいたことは確実です。半磁器の原料には、近郊の松倉山から取れる「松倉砥石」を用いていたのではないかと思われます。

「第二期小糸焼窯跡」の画像
「半磁器質の器」の画像
「鉄釉の器(花器か?)」の画像
「「小井ト」の文字が描かれた窯道具」の画像

また、「小井ト」の文字が描かれた窯道具も発見されています。
理由は不明ながら、第2期小糸焼はわずか数年、実験程度の段階で廃窯し、戸田柳造は再び尾張に帰りました。

では、次のページから、渋草焼についてご紹介してゆきましょう。

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