第3章 民窯の出現
初期小糸焼、源十郎焼がいわばお殿様の御用窯であったとすれば、それ以降の窯は日用雑器を賄うための民窯です。当時日用陶器はおおく尾張などの他藩から輸入していたわけですが、急峻な山中では運搬不便であり、しかも国境で関税を取られるため、どうしても自前の陶器製造の必要性にせまられました。ひとびとは悪条件の土地で挫折を繰り返しながら、陶業を続けてゆきます。
・初期三福寺焼(寛保三年・1743~天明・1789頃まで)
そのころ金森氏は飛驒を去り、飛驒は幕府直轄の天領となっていました。三福寺焼は高山の町人が現在の高山市三福寺町に尾張の陶工を呼んで始めたもので、窯跡を検分するに、相当大量の製品を焼いたと見られ、一時期は盛んであったと思われます。
しかし、高山の天明の大火で経営者宅も焼け、同時に三福寺焼も廃業してしまったと思われます。すり鉢やこね鉢、碗などの実用雑器類を焼いていました。
・山田焼(明和年間・1764~1771から現代まで)
山田焼は現在の高山市山田町にあり、江戸中期から現在まで、飛驒で一番永く続く窯です。創業当時から、すり鉢、かめ、徳利などの雑器を焼いていました。土は近郊の田土を用いています。殖産振興のためでありましょう、郡代・豊田藤之進、小野朝右衛門の力添えもあり、栄えました。
一時期は郡代の違いにより政治方針の転換等で衰退した時期もありましたが、明治中期から大正以降復活し、時代の要求に応じてレンガ、土管、瓦なども焼くようになり、再び飛驒の需要を満たすようになりました。最盛期には9軒の窯元がありましたが交通の発達、生活様式の変化などにより昭和に入り減ってゆき、現在は小林陶舎(小林鳳山)1軒となっています。
では、次のページから、町人文化と窯業についてご紹介してゆきましょう。