第2章 御用窯としてのやきもの
・初期小糸焼(寛永年間・1620~30年代に開窯?)
飛驒のやきもので文献の存在するものとして一番古いものです。金森氏は初代長近の頃より茶の道に通じていました。
特に長近の孫に当たる重近(宗和)は「茶道宗和流」の開祖として知られています。
このためか、飛驒における窯業は、地場産業の殖産興業というよりは、茶の道に沿う形で開始した印象があります。
小糸焼は、金森第三代重頼が京都あるいは瀬戸から陶工を呼び寄せ、小糸坂(現在、飛驒の里の下あたり)の地で焼かせたものと言われています。
しかし、窯跡はすでに無く、その詳細は明らかではありません。わずかな陶片と、伝世品と言われる香炉が遺っているのみです。
・江名子源十郎焼(寛文年間・1660年代)
現在の高山市江名子町に窯がありました。金森四代頼直が陶工源十郎をよびよせて作らせたといわれています。源十郎がどこから来たのかは謎ですが、窯跡に落ちている陶片のなかには繊細で技術の優れた物があり、高い技術を持っていた者と思います。
窯跡は三方を山で囲まれた扇状地にあり、風をうまくはらむように場所が選んであります。また、窯跡には源十郎のものと言われる墓があります。伝世品と言われる品はいくつかありますが、謎が多く、今後さらに詳細な調査が必要でしょう。
では、次のページから、民窯の出現についてご紹介してゆきましょう。