第1章 はじめに
飛驒には信楽や瀬戸、美濃、有田などのような華々しい「やきもの」の歴史はありません
もちろん飛驒においても縄文、弥生時代から人々は土器を作り、奈良時代には寺院の瓦を焼く窯もありました。しかし、やがてそれらは途絶え、やきものについては長い空白が続きました。
今回のギャラリーでは、江戸時代にようやく芽生え、幾多の盛衰を繰り返してきた飛驒のやきものの歴史についてご紹介しましょう。
これは日本における江戸時代の主なやきもの産地を示したものです。
ご覧のように、大規模産地は圧倒的に関東以西に存在します。燃料(赤松)の自生北限である北海道以北には大きな窯場は存在しません。東北地方にも窯業生産地はいくつかありますが、いずれも藩などが関わって殖産興業のために開いたもので、自然発生的に出来た物ではありません。
さて、「やきもの作り」が産業として存続するための必要条件として次の5つが挙げられるでしょう。
- 1.良質の粘土が大量に取れる
- 2.燃料である赤松が豊富にある
- 3.気候が温暖である
- 4.技術者が存在する
- 5.場合によっては支援者の存在
では飛驒地方においてはどうだったのでしょうか?
粘土とは花崗岩の類が風化し、水に流されて堆積したものですが、飛驒には大きな川や湖沼が無く、したがって均質な大量の粘土層が生成されませんでした。
また、冬の気候は厳しく、氷点下まで下がるため、製作途中の作品が凍ってしまいます。
また、周囲を山で囲われ、日照時間も短く乾燥にも適していません。燃料の赤松には事欠かないものの、製陶にはまことに不適格な土地といえるでしょう。
さらに飛驒において特徴的なことは、「飛驒の匠」の名のとおり木の技術が発達しており、碗や鉢などは木製品である程度まかなえました。陶磁器の必要性があまり無かったことも窯業が発達しなかった一因と考えられます。
さて、そんな飛驒でしたが、天正14年(1586年)金森長近が豊臣秀吉の命を受け、飛驒を治めるようになります。
政治も安定した金森三代重頼のころ(寛永・1620年代)から飛驒においてようやく製陶業が始まります。
ここでまず、飛驒のやきもの歴史年表を示しておきましょう。
また、下の図は飛驒地方のおもな窯場を示した地図です。窯は人口の多い現在の高山市付近に集中しています。
では、次のページから、飛驒におけるやきものの歴史と変遷についてご紹介してゆきましょう。