岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

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木下好枝写真展「雪国の顔」

Vol.1 木下好枝写真展「雪国の顔」
木下好枝(きした・よしえ)
1940年、高山市に生まれる。斐太高校定時制中退。細江光洋写真スタヂオに15年勤務ののち、現在フリー。「古川祭」「千光寺の円空」などの出版物の写真を担当。飛驒の里ほかで平成3年、写真展「雪国の顔」を開催。
木下芳枝さんは2005年永眠されました。心よりご冥福をお祈りいたします。~飛驒民俗村

出逢い

多くの人たちとの出逢いの中で写真を写してきた。またこれからも、多くの人たちとの出逢いの中で写真を写していくだろう。私にとっての写真とは、「出逢いの旅」であると思う。

昭和48年2月7日、小雪降る高山を出発、山之村(岐阜県吉城郡神岡町)へと向った。伊西峠のトンネル近くで、初めて山之村の人に出逢ったのが、西 喜代一さんであった。 四年余りの歳月を、水没する吉城郡河合村保の集落に取り組んだが、あまりにも大きな対象に気負い過ぎて、自ら挫折した経験を持っていた私は、初めて訪れる山之村に対し、好奇心と不安感の入り混じった、複雑な思いで向っていたのである。しかし、この西さんとの出逢いに心強さを覚え、その後いろいろとお世話になり、山之村へ通う原動力となった。 その頃、冬の郵便物は、朝早く山之村からバスに乗って前平まで行き、帰りは歩いて運ばれていた時代であり、その途中の西さんに出逢ったことは、山之村への幸運な第一歩であったと思う。雪の峠路を、〒マークのリュックを背負い、長靴の上にハバキを履いた西さんの後ろ姿を見て感動した。人の便りが、あの厳しい伊西峠を歩いて運ばれていることへの想い…。保のダム取材から挫折して二年余り、私はようやく求めていた村を探し当てたかのように、この地を記録せねばならぬ、と心に決めたのであった。

その後十年余り、時間の許す限り村へ通い続け、多くの人々との出逢いの中で、私は私なりの人生観を育ててきたと思う。過酷な気候風土に生きる人たちほど、謙虚で人にやさしい。村の人々に接すれば接するほどに、カメラを武器として問い続けるのではなく、その地に根を張って細々と生き続ける常民の暮らしを、あるがままの姿を、あるがままに記録していくことの大切さを感じていた。自称、「出逢いの旅」のカメラ紀行が、そのときから始まったのである。

振り返ってみると、山之村との出逢いがなかったならば、私の人生も変わっていたかもしれない。保のダムのため離村していく人々の哀しみを見てきただけに、たくましく生きる人々の誇らしい姿が、生きるということの意味を、常に私の心に問いかけてくれた。 また、縁とは不思議なものである。水没する保集落のお寺が、下ノ本の福寿寺に移築されたのが、私が村に入る一年前のことである。保のお寺さんにも、また福寿寺のお寺さんにも共にお世話になってきた。運命の糸に結ばれていたとしかいいようのない出来事である。 木下好枝
「わたしの奥飛驒」山と渓谷社(1991年刊)より転載

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