岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

旧田中家

江戸時代の高山に生まれた国学者「田中大秀」。
そのゆかりの家は当時の農家の暮らしを伝えています。

旧田中家の身体測定

サイズ
桁行12.1m 梁間10.9m
仕様
榑葺き(板葺き)切妻造
外観の特徴
東面に一間の庇(ひさし)がつく。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれている。

旧田中家の履歴書

かつての住所
岐阜県高山市冬頭町982番地
建築年代
江戸時代中期
その他
国指定重要文化財

江戸時代中ごろ、高山に生きた国学者が田中大秀です。

国学者田中大秀(1777年生~1847年没)は、高山一之町で薬種商を営む「田中屋」の三男として生まれました。幼少から学問を好み、国学者本居宣長の門弟となりました。26歳で田中屋の家督を継ぎ、46歳で長子に家督を譲り隠居して国学に専念しました。荏名神社(高山市江名子町)を再興し、やがてその傍らに住居を移して、荏野翁(えなのおきな)と号しました。71歳で亡くなるまで、「竹取物語」や「落窪物語」などの古典文学を研究し、数々の名著を残しました。

財産家だった田中家は商売のかたわら冬頭村(現高山市冬頭町)に田畑を所有し、小作人に貸し与えていました。旧田中家は、それらを管理する田舎(でんしゃ)として用いられました。「田舎」とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った出先機関のことをいいます。後には単なる作業所・休憩所などの建物の呼称となりました。旧田中家は大秀ゆかりの家ということもあり、国指定重要民俗文化財に指定されています。

田中大秀の像
平和の続いた江戸時代、天領であった高山では商人が財力をつけていました。高山祭はその象徴です。大秀は春の祭屋台のひとつ神楽台(写真)の改修設計者でもありました。

江戸時代中期、農村ではまだ土間が生活の中心でした。

田中大秀は彼の庶子(嫡男以外の子)を住まわせ、小作を管理させるために文化年間(1804~18年)、中切村(現高山市中切町)にあったこの家屋を冬頭村へ移築したと伝えられています。建築年代を飛驒の里へ移築する解体の際に調べましたが、各部材に墨書による年記の資料は確認されませんでした。しかし礎石や軸部に解体番付が記されており、明らかに移築されていたことが確認できました。建築形態や生活の中心が土間にある土座形式から、江戸時代中期にまでさかのぼる民家とされています。

旧田中家に代表されるゆるやかな傾斜の石置榑葺屋根の民家は、高山盆地を中心とした飛驒中央部に多く見られました。屋根の下には各室とも天井を張らず、見上げると直接榑葺きの屋根裏がわかります。

間取りは当時の飛驒地方では一般的なものです。玄関であるドウジから入ると、土間がつづいたままでイロリがあるオエ(居間)が広がります。生活の中心だったイロリまわりには土間の上に籾殻(もみがら)を敷き、その上にムシロを置いて座りました。またオエには、深さ60cmほどに掘り込まれたムロが二つ有り、野菜などを貯蔵しました。右手奥へさらに土間がつづき作業場であるニワになります。オエから左手奥が板の間になっており、デイとブツマがあります。ブツマ裏には寝室である板敷きのネマが二間並びます。畳の部屋はまだ一般的ではありませんでした。

天井はなく、屋根を葺いた榑板がそのまま見える。
ニワ側から見たオエの様子。土間に作られたイロリ(写真手前)のまわりにムシロがひいてある。中央奥に板の間が見える。

あれ何?これ何?

平屋で背の低い建物なので、屋根の様子がよく見える。裂いた板を幾重にも重ね、その上には石が置かれている。
板敷きの部屋に立派な仏壇がある仏間。仏壇の裏側にデイと呼ばれる寝室がある。江戸時代中期の農民の家はほとんどが農民自身で建てていた。釘やかすがいはいっさい使わず組み立て、また解体して必要な場所へ移築できる仕組みになっていた。
ムロと呼ばれる天然の貯蔵庫。土間は固く土ぼこりもほとんど立たない。
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