旧田中家の身体測定
- サイズ
- 桁行12.1m 梁間10.9m
- 仕様
- 榑葺き(板葺き)切妻造
- 外観の特徴
- 東面に一間の庇(ひさし)がつく。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれている。
国学者田中大秀(1777年生~1847年没)は、高山一之町で薬種商を営む「田中屋」の三男として生まれました。幼少から学問を好み、国学者本居宣長の門弟となりました。26歳で田中屋の家督を継ぎ、46歳で長子に家督を譲り隠居して国学に専念しました。荏名神社(高山市江名子町)を再興し、やがてその傍らに住居を移して、荏野翁(えなのおきな)と号しました。71歳で亡くなるまで、「竹取物語」や「落窪物語」などの古典文学を研究し、数々の名著を残しました。
財産家だった田中家は商売のかたわら冬頭村(現高山市冬頭町)に田畑を所有し、小作人に貸し与えていました。旧田中家は、それらを管理する田舎(でんしゃ)として用いられました。「田舎」とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った出先機関のことをいいます。後には単なる作業所・休憩所などの建物の呼称となりました。旧田中家は大秀ゆかりの家ということもあり、国指定重要民俗文化財に指定されています。
田中大秀は彼の庶子(嫡男以外の子)を住まわせ、小作を管理させるために文化年間(1804~18年)、中切村(現高山市中切町)にあったこの家屋を冬頭村へ移築したと伝えられています。建築年代を飛驒の里へ移築する解体の際に調べましたが、各部材に墨書による年記の資料は確認されませんでした。しかし礎石や軸部に解体番付が記されており、明らかに移築されていたことが確認できました。建築形態や生活の中心が土間にある土座形式から、江戸時代中期にまでさかのぼる民家とされています。
旧田中家に代表されるゆるやかな傾斜の石置榑葺屋根の民家は、高山盆地を中心とした飛驒中央部に多く見られました。屋根の下には各室とも天井を張らず、見上げると直接榑葺きの屋根裏がわかります。
間取りは当時の飛驒地方では一般的なものです。玄関であるドウジから入ると、土間がつづいたままでイロリがあるオエ(居間)が広がります。生活の中心だったイロリまわりには土間の上に籾殻(もみがら)を敷き、その上にムシロを置いて座りました。またオエには、深さ60cmほどに掘り込まれたムロが二つ有り、野菜などを貯蔵しました。右手奥へさらに土間がつづき作業場であるニワになります。オエから左手奥が板の間になっており、デイとブツマがあります。ブツマ裏には寝室である板敷きのネマが二間並びます。畳の部屋はまだ一般的ではありませんでした。