岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

旧八月一日家

八月一日と書き“ほづみ”。庫裡として使われました。
今はソリの展示館として公開しています。

旧八月一日家の身体測定

サイズ
桁行14.4m、梁間8.2m
仕様
茅葺き入母屋造り
外観の特徴
出窓付きの破風がある。鐘堂の側の壁にある戸は、かつて本堂へ廊下続きだった時の名残。

旧八月一日家の履歴書

かつての住所
岐阜県高山市荘川町三尾河地区
建築年代
江戸時代末期
その他
市指定重要文化財

飛驒の里が展示する代表的な生産用具のひとつ“ソリ”を旧八月一日家で見ることができます。

旧八月一日家は、旧大野郡荘川村にあった西願寺の庫裡(住職たちが居住する建物)として建てられた家です。現地では庫裡と本堂とが廊下で結ばれていたそうで茅葺き入母屋造りとなっています.旧暦の八月一日は新暦の九月十日頃に当たります。飛驒地方では、この頃になると粟・稗などの穂が実り収穫したことから、八月一日と書いて「ほづみ」と呼んでいたのです。

現在、室内では飛驒地方で用いられたソリが多数展示されています。飛驒地方においてソリは、積雪の多い冬期間、最も重要な運搬手段でした。そして運ぶ対象や用途に応じて様々な種類のソリが考え出され、用いられました。かつて「ドシマ」と呼ばれる人たちが牛の背を利用して物資を運搬していたころは、冬になると牛ゾリが利用されました。明治中期に荷馬車が発達し馬が用いられるようになると、馬ゾリが多く用いられました。こうした牛馬に引かせる大きなソリが旧八月一日家の縁に展示してあります。

ソリを巧みに操る木材の運搬風景。かつてのこんな風景も今はもう見ることもない。

やっかいなはずの雪を材木運びに利用する知恵。現代とは発想の違う運搬の立役者が“ソリ”でした。

山国である飛驒では、豊富な山林資源に携わる生業は盛んに行われました。その中でも林業、つまり木材の切り出しとその運搬は飛驒人の営みを代表する生業のひとつでした。(詳細は杣・木挽をごらんください。)山林で伐採された木材の曳き出しは、道がなくても搬出できるため、積雪を利用したソリによるものが盛んでした。よって冬期間の重要な仕事として、専業の職人だけでなく農閑期の農民らも従事しました。山の斜面をバランスをとりながら滑らしていくテゾリなどが用いられました。

イロリなどで燃やす薪は、厳しい冬の飛驒地方において重要な燃料であり、暖房用としての消費量も非常に多いものでした。各村々の共有の山林(入会山)や私有の山林から薪を運んだり、伐り出したりする仕事は冬の重要な生業のひとつでした。3月に伐採して所定の場所に積み上げて1年間乾燥させます。そして次の年2月の積雪期に、前年に伐り出したものをソリで運びます。こうした作業工程から、飛驒地方では薪のことをハルキ(春木)と呼んでいます。このハルキの運搬に、様々な用途によってソリが多く用いられました。まず、山から運び出して道路まで出すのに山出しゾリを使用しました。道路まで出したハルキを家まで運ぶのに引付けゾリなどを用いました。また、自家消費する以上に薪が余る家では、町などに売りに行きました。その際などに用いたのは三つ枕、四つ枕ソリで、町中などの平地を運ぶのに適してました。

飛驒地方でも町屋といわれる都市部では人や物資を運ぶ箱ゾリが用いられたり、人力車に替わって人力ゾリが人を運びました。やがて交通網の発達や自動車の普及に伴い、様々な種類のソリも姿を消していきました。しかし、雪国の生活に欠くことができないものであったソリは飛驒人の記憶の中に生き続けているでしょう。

冬の町中で活躍した箱ゾリ(右)と人力ゾリ。人力ゾリは冬の町の交通手段として、主に医者の送迎に使われた。春慶塗に幌付きの高級ないわばハイヤーだった.。
木材を運搬したソリなどさまざまな種類のソリが活躍していた。

あれ何?これ何?

旧八月一日家の内部は、ソリの展示用に改造してある。固く整えられた土間を土台にした様子もわかる。
旧八月一日家の破風は、その中に小さな屋根付きの出窓がある。「鼻小屋」と呼ばれ屋根裏の採光に使われた。
旧八月一日家の横に立つ鐘堂(大正6年建築)は、揣岸寺(臨済宗妙心寺派・都竹清隆住職)より寄付されたもの。釣り鐘は飛驒の里周辺の個人・業者の方々からの寄付により製作し、昭和58年12月に完成した。
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