旧吉真家の身体測定
- サイズ
- 桁行13.9m 梁間9.4m
- 仕様
- 2階建 主屋茅葺き入母屋造
- 外観の特徴
- 南面に板葺(榑葺)の下屋が附属
旧吉真家は安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)の後、当時の当主だった礎左ヱ門が小鳥川上流約13kmにある集落「保」から移築したものです。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋(流焼失を含)378軒、半壊497軒、死者207名に及び、全滅した集落までもありました(『河合村誌史料編』より)。
旧吉真家はこんな大地震にも耐えたいわくつきの強固な建物で、豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁によって構成されています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛驒の一部だけに見られる地域色の強いものです。クリの股木を用いたこの柱は、上部の曲がった柱頭で上屋の構造材を受けるようになっており、河合町、宮川町など北飛驒でも宮川流域の地域に多く見ることができます。
茅葺き入母屋造といわれる独特な形をした屋根は、破風(下写真)からの明かりとりがあり2階でのカイコの飼育などの作業に適したつくりです。また、旧吉真家のように破風のたちあがりが外側に傾斜しているものは「定九郎」といわれています。横から見ると、屋根の形が歌舞伎「忠臣蔵」にでてくる定九郎の髪型に似ているからそのような名称がついたのではないかとされています。山深い地域の建物の屋根にちょっとしゃれたあだ名が付けられたのは、江戸時代の天領であった飛驒に歌舞伎などの風俗も盛んに伝えられたからだと思われます。
内部は、板の間にイロリがある「オエ」とよぶ大広間が家族の暮らしの中心になりました。畳敷きの「デイ」と「ネドコ」が居室部となり、反対側に作業場であり炊事場でもあった「ニワ」と馬をつないだ「マヤ」があるという三つの構成になっています。こうした間取りは、旧吉真家のあった河合村をはじめ北飛驒における宮川流域や上流の神通川流域である富山県婦負郡にも多く見られました。