「旧押上家土蔵」
独特の耐震構造を持つ蔵。
もとは明治14(1881)年、高山町上川原の大工棟梁蔵満仁平が旧清見村牧ヶ洞に建てたものです。それを陸軍中将であり郷土史家でもあった押上森蔵が手に入れ、大正3年に西之一色町へ移築しました。建物頂部が四方にすぼまった四方転びといわれる耐震構造を備えた土蔵です。置屋根ではなく、軒蛇腹付の瓦葺屋根となっています。現在では民具などの民俗資料を保存する収蔵庫として利用されています。
もとは明治14(1881)年、高山町上川原の大工棟梁蔵満仁平が旧清見村牧ヶ洞に建てたものです。それを陸軍中将であり郷土史家でもあった押上森蔵が手に入れ、大正3年に西之一色町へ移築しました。建物頂部が四方にすぼまった四方転びといわれる耐震構造を備えた土蔵です。置屋根ではなく、軒蛇腹付の瓦葺屋根となっています。現在では民具などの民俗資料を保存する収蔵庫として利用されています。
その昔飛驒地方の建物は、民家、町屋をとわずほとんどが木造建築でした。特に建物が密接して立ち並ぶ高山などの都市部では、火事の類焼を防ぎ、家財道具を守る土蔵が独自の発展をとげました。中切土蔵もまた、「飛驒形」と呼ばれる置屋根を乗せたものです。現在、民具などの民俗資料を保存する収蔵庫になっています。
セイロ倉はその名のとおり、蒸篭(セイロ)のように角材を積み上げて造った建物です。ログハウスのようなセイロ倉は校倉(あぜくら)様式とよばれるつくりで、飛驒地方ではあまり例がありません。校倉造は東大寺の正倉院に代表されるとおり、木材の性質を活かした構造により倉庫としてよく用いられています。梅雨時のような湿気の多いときは木材が膨張して材の間をふさぎ、湿った空気の進入を防ぎます。空気が乾燥すると隙間ができて、内部の通風性がよくなって乾燥するようになります。セイロ倉の1階は穀物を入れ、2階は道具類を収納して用いられました。
この板倉は、船坂家の寄贈により神岡町火笠から移築したものです。落とし込み板壁と呼ばれる厚いスギやヒノキ板で作られています。セイロ倉と同じような構造をしており、穀物の保存に適しています。
柱や桁も多く丈夫なつくりになっていますが、木造であるため火事には弱く、住居から離れたところに建てて類焼を防ぎました。
郷倉とは、江戸時代の終わりごろ飛驒地方の各郷ごとに飢饉や凶作に備えて、穀物を蓄えるために建てられた倉庫です。昔はどこの郷でも見られ、穀物の貯蔵以外にも祭の備品など村で共同で用いる道具も納めていました。現在では、ほとんどのものが取り壊されてしまって、高山市内で現存しているものは市指定文化財になっている八日町郷倉と、飛驒民俗村に移築した新宮町の郷倉のみです。飛驒民俗村の郷倉内には、ワラでつくられた履物コレクションを展示中です。
飛驒の里の中心に全体を見渡すように火の見やぐらが立っています。かつての町や村でも、こうした光景が見られました。現在の火の見やぐらは移築ではなく再現したものですが、古い民俗文化を保存する飛驒の里にとって、その姿は象徴的です。 消防小屋も再現したものです。自動車のない時代は、こうしたポンプ車で火事へと駆けつけました。とても心もとない設備でした。
明治時代から長く使用されてきました。高山における選挙や広報の掲示に利用され、市民に親しまれてきました。飛驒の里完成とともに、“移築”されてきました。飛驒の匠の手にかかると、掲示板でもしっかりした造りだったのです。今でも現役で使われています。