岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

生産・生活用具

飛驒人の知恵にあふれた用具の数々。
各民家にテーマ別で展示してご覧いただいています。

飛驒の農山村で行われてきた数々の生業から生み出された生産用具。暮らしで大切に使われてきた衣食住の用具。飛驒の里にはさまざまな用具コレクションを各民家に展示しています。

「機織り・衣類」
生業として、そして家族のため、女性たちは機織りをしました。

近世、飛驒地方において製作された「飛驒紬(つむぎ)」と呼ばれる織物がよく知られています。紬は、養蚕で売ることができない屑繭をイトヨリグルマにかけ、その繊維を引き出し撚りをかけた絹糸でできた織物です。当時の文献に飛驒紬の美しさ、質の良さが記されており、全国的にも人気があったようです。

一方、普段の生活で着る木綿や麻などでできた衣服は、だいたい各自の家々で女性が手間をかけて作りました。麻(大麻)を栽培し、その皮から麻糸を紡いだり、ほかにも様々な原料から繊維を取り出しました。そして高織、座織など織機を用いて布地にし、家族の着物を作製しました。(旧新井家に展示)

裁縫道具の針箱

「漆掻き」
飛驒の伝統工芸「春慶塗」。その材料となる漆を採取する生業でした。

ウルシカキというのは漆(ウルシ)の木から漆液を採取する仕事で、主として北飛驒の河合町・神岡町・白川村北部、南飛驒では小ヶ野・和佐などで行われました。特に「山中」といわれる河合町の角川・保・羽根・有家などの集落が多量に産出しました。また、神岡町の東漆山、西漆山はその名のとおり漆の多い所でした。

漆の木は、岩場のやせ地で山畑にもならない所に生えます。飛驒の漆掻きは越前(福井県)からくる漆掻き人足によって始まったといわれています。その後、羽根・保などの集落の人によって採取が行われるようになりました。

漆掻きの行動範囲は4キロ四方といわれ、その範囲の中にある採取できる20年前後の木を買い5月から10月頃まで幹から採取します。11月に入ると枝を60本程切って束ね、乾燥しないように水に漬けておいて、この枝から冬の期間中漆液を採取します。(旧中藪家に展示)

「漆粉・ロウソク作り」
漆の実からは和ロウソクができました。

漆の実からはロウ(蝋)がとれるため、大切な財源でした。実を加工せず、漆実として出荷する集落や、加工して漆粉として売る場合、ロウとして売る場合、ロウソクにまで完成させて売る集落もありました。

漆粉を作るには、臼に実を入れて杵でついて粉砕します。粉砕した漆粉が散って部屋の中が滑るようになるので紙帳を張り巡らしてそのなかでつきました。 蝋をつくるには漆の実を蒸し、これをシメキに入れて締め上げて、下から流れ出るロウを箱に流して固形にして、高山や古川のロウソク屋に売りました。また越中(現富山県)、越前へも出荷しました。白川村の荻町の農家ではロウソクにまで加工しました。(旧大野家に展示)

「木地師の道具、杣・木挽用具」
切り、加工し、道具を作る。その作業用具から木にまつわる生業にふれてください。

杣・木挽の仕事については「生産家屋・山」を参考に。彼らが使用したのは主にのこぎりや斧でした。木地師とは漆を塗る前の器などを彫ったり、組み立てる仕事です。伝統工芸の漆細工はこうした分業により作られます。

飛驒の里では木地師による代表的な作例を展示しました。古く、漆加工がされていないものですが、木目や丁寧な作業ぶりが見て取れます。(旧大野家に展示)

「履物(ワラジ)」
ワラ細工の履物をワラジといいます。冬の夜なべ仕事でした。

その昔、夜の長い冬がくると、いろり端で夜なべをするのが当然の日課でした。夜なべの仕事としてワラ細工を製作するワラ仕事がもっとも多かったそうです。まずワラをつくりやすいように手を加えます。ワラ打ち石の上にのせて木槌でたたきまました。そうすることでワラが柔らかく折れにくくなって、細工が容易になり丈夫になるためです。ワラスキですいてハカマ(株もとの葉)をおとしました。また、バンドリなどつくるものによってはニゴ(ワラの穂先部分)を抜いて、その部分だけを用いました。こうして加工したワラを用いてさまざまな道具をつくりました。ゾウリ、ワラジ、米俵、ムシロ、縄、ホウキのような一般的なものから、ミノや冬の必需品であるズンベ、ウマノワラジなどをつくりました。これらは自家用のものであったり、町などで売ったりしました。(旧西岡家に展示)

わらじ
馬のワラジ

「木の股の道具」
自然を生かす飛驒人の知恵と遊びごころ。

 人々の普段の生活の中で用いられた民具は木製のものが多く見られます。その中でも木の股や曲がったもの、こぶや虚(うろ)など、木の形態や材質といった自然の特徴をそのまま利用して作られ、用いられた民具があります

曲がって伸びた幹をそのまま利用した燭台(ショクダイ)やこぶをくり貫いてつくった杓子(シャクシ)など面白いかたちをしたものが展示されています。(旧吉真家に展示)

木の股を利用したヒシャクなどを旧吉真家で展示。

「炊事道具」
素朴な用具が農山村の素朴な食事を想像させる。

 今昔を問わず、日々の楽しみといったらやはり食事でしょう。飛驒地方では米の収穫高も少ないため、米に稗などの雑穀や大根などの野菜を混ぜて量を増やしたり、ヨモギやトチ、クリ、キビなどを混ぜたモチやソバなどの粉のものも主食としました。

おかずも今から見れば品数も少なく粗末なものでしたが、季節折々の山の幸が食卓に並びました。旧道上家住宅にてマナイタやスシバコ、オロシガネや貝シャクシなどが展示されています。(旧道上家に展示)

大根おろし器など旧道上家に展示。

「ハレの器」
普段が質素に暮らしていた庶民も、ハレの日は料理も器も特別でした。

 普段、日常の生活という意味である「ケ」に対して祭礼や冠婚葬祭など特別な日や場面のことを「ハレ」といいます。「ハレ」の日にはこの日の為に大切に保管してある普段使わない道具を土蔵や押し入れの中から持ち出して用いました。それは、祭礼や冠婚葬祭の際に招待した人々をもてなす料理を盛る食器であったり、酒宴で用いる徳利や盃などです。飛驒地方においては普段使う食器は「呉器(ごき)」と呼ばれる漆を塗らない木地のままの椀や皿が多いですが、客を持て成す「ハレ」の食器は朱塗り、黒塗りの漆器やよく「古伊万里」とよばれる肥前(現佐賀県)産の磁器などが用いられました。また、飛驒地方の料理は、江戸時代初期の茶人である金森宗和によって創られた宗和流本膳の影響を強く受けています。料理屋、仕出し屋に限らず一般家庭においても宗和の膳椀を二、三十人前を所有しているところが多かったのですが、戦後から徐々に料理方法が崩され、失われつつあります。

ここでは、「ハレ」の民具の中でも婚礼や祭礼時につくられた、「ごっつお」(飛驒の方言でご馳走の意)を盛った食器を中心に展示を行っています。(旧富田家に展示)

「火器」
夜の灯は貴重で大切にされました。

 電気のなかった時代、明かりといえばイロリの火とロウソク、鯨などの油ぐらいでした。朝早くからの重労働のため、暗くなれば早く寝るといった生活が一般的でした。

また、もったいないということで、夜なべをするときなどどうしても必要な場合以外ロウソクなどの灯火具は使いませんでした。旧道上家住宅にてガンドウやタイマツ、火打箱などが展示してあります。(旧道上家に展示)

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