岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

生産家屋・山

山での仕事は飛驒の重要な生業でした。
それは農民にとっても同じだったのです。

「杣(そま)小屋と木挽(こびき)小屋」
南方山、北方山。ふたつの地域の山方衆。

古くから木材の伐採や製材、輸送は飛驒で生活する人々の重要な生業のひとつでした。なかでも江戸時代には、金森時代から幕府直轄地時代を通して、大量の木材の伐り出しが行われてきました。当時、南方山と呼ばれる乗鞍岳・御嶽山麓に広がる森林地帯と北方山と呼ばれる北アルプス山麓の森林地帯では、その地域に暮らす人々が杣・木挽仕事に従事しました。飛驒ではこうした山で仕事をする人々を「山方衆」と呼んでいました。

杣小屋
木挽小屋

杣(=農民)と木挽(=職人)の仕事

山方衆の中でも、樹木の伐採、木材の加工にあたる人を杣といいます。一方、材木を鋸(ノコ)でひき、板材をつくる作業をした職人たちを木挽と呼びます。杣は農業などの副業、いわば季節労働で、米のとれない地域では重要な収入源のひとつでした。杣の仕事はまず、木を切り倒して枝打ちをし、樹皮をけずって必要な長さに切りそろえます。そして先端をトキン(頭布・方錐形)に削りだし、伐採した場所から谷に落とし(山出し)、谷からまた輸送できる中継地点まで運び出す作業(谷出し)をしました。また、巨木で重く運びにくいときなどは、斧を用いて不必要な部分を削りとったり、角材に仕立てたりしました。

こうした仕事を大杣(おおそま)といいました。大杣の作業が加えられた材を丁寧に建築材に仕上げることを小杣(こそま)といいました。いっぽう木挽は年季奉公によって修行し、技術を習得した職人たちです。木挽の仕事は主に、里に送られた材木から板や框(かまち)、柱を挽くことです。しかし、ときには山中に入り、杣と同様に伐り出しから大杣、小杣の仕事もこなしました。

杣小屋の内部
木挽小屋の内部

山仕事の飯場、それが杣小屋・木挽小屋。

杣や木挽たちが親方と共に、山中で一ケ月ニケ月と滞在して共同生活をする場所が杣小屋であり、木挽小屋です。山方衆の間では飯場とも呼ばれていました。妻入りの小屋掛けで中央に通り土間があり、左右に職人の寝起する板の間があるという簡素な造りでした。中央の通り土間には、最低でも二ヶ所火が焚かれており、カギヅルを吊って飯と汁の鍋がかけてありました。寝泊りする者の一人あたりの場所はムシロ一枚、約90×180cmの広さでした。

こうした山中の共同生活は、危険な仕事も多くたいへんでしたが、親方の統率のもと規則正しかったとされています。彼ら特有の約束事、「小屋の中を通り抜けない」「仲間の後ろを通らないで前を通る」「汁かけ飯は食べない」などは山の神への信仰や山中での迷信によるものも多かったようです。 杣や木挽たちが用いた鋸や斧などの道具は、旧大野家にて展示してあります。

「炭焼き小屋」炭焼きは冬の大切な収入源でした。

その昔、木炭は薪と並んで大切な燃料でした。山がちな飛驒地方では「ハルキ(春木)」、「ホタ(榾)」と呼ばれる薪が多く手に入るため、庶民にとってはそれほど炭の需要はありませんでした。しかし江戸時代、高山陣屋など当時の為政者に「御用炭」を納めるため、許可を得た特定の地域のみで炭窯が営まれることになりました。幕末には高山などの町屋の発達に伴い炭の需要が増え、炭窯が増加しました。明治時代に入ると炭が自由に生産できるようになったため、各地域で炭窯が開かれるようになりました。冬場の大切な収入源として炭焼きの仕事は飛驒中の山村に広がっていったのです。最も多く生産されたのは第2次大戦中から戦後にかけてでした。

炭にする原木は、ナラ材がもっともよいものとされました。他には用途に分けて別に焼きました。クリの炭は鍛冶屋炭と呼ばれ、火付けがよく、使い終われば早く消えるため鍛冶屋で用いられました。クリの炭は火持ちがよいため、火鉢用として多くの需要がありました。飛驒の里では炭窯を作り、そのまわりには山中の炭焼小屋をそのまま再現しました。また周りには便所や原木の運び込みに用いたキンマ(木馬)道などが設けられています。

炭焼き小屋
木馬

炭焼き小屋を使って毎年炭を作っています。

飛驒の里では、職員によって実際に炭焼きが行われています。2、3月の頃に約3回焼き、最後に焼いた炭は来年の同時期に炭出しを行います。そして、作られた炭は冬の焼餅サービスなどの行事や休憩所のイロリに用いたりします。

炭焼き窯
炭だし作業
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