岐阜県高山市に広がる飛驒民俗村 飛驒の里は自然と伝統が織りなす歴史と文化の宝庫。心温まる野外博物館で、飛驒の風土と古き良き暮らしに触れよう。

生産家屋・里

今ではほとんど見られなくなった作業小屋。農山村の暮らしを支えてきました。

「ハサ小屋」
収穫物の乾燥と作業に使いました。

山々に囲まれた白川郷では日照時間が短く、また秋から冬への季節の移り変わりが早い地域です。そのため、秋に刈り取った稲や稗は屋根のあるハサ小屋にかけて乾燥しました。壁のない下の部分にハサをわたして収穫物を乾燥し、上の壁で囲まれた部分は作業場や物置として使用しました。こうした小屋も白川らしく、屋根は合掌造の民家の屋根と同じつくりになっています。

ハサ小屋
旧所在地  白川村大字長瀬
大きさ  桁行7.5m、 梁行6m
小屋には蜂の巣が

「わらび粉(こ)小屋」
水車を利用した粉ひき小屋です。

わらび粉とは、蕨(ワラビ)の根から採取できるデンプンです。現在の高山市朝日町、高根町、そして飛驒市神岡町の山之村地域で生産されました。いずれも山深い寒村です。飛驒の里にあるわらび粉小屋は、旧高根村大字中洞から移築したものです。わらび粉の採集、製造時には山中にあるこの小屋に住み込んで作業しました。高根町は乗鞍岳と御岳の山裾に接する山深い高地で、海抜1,000メートルを超える高原には良質の蕨が大量に自生しています。

蕨の根から取れる澱粉は、高冷地で米や麦の収穫の少ないこの地方の人々にとって、焼き畑から取れる「そば」と共に、貴重な食料の一つとなっていました。また、傘張りの糊などに用いたため、日々の生活を支える重要な換金作物でもありました。

秋、蕨の茎が枯れるころ、その根を掘り出して水に浸して柔らかくし、谷川の水を利用した水車の力を借りて砕きます。砕いた根を、大きな木材をくり抜いてつくったフネに入れて底の沈殿物を乾燥して澱粉を集めました。わらび粉小屋では蕨粉の他、米や麦、そば等の穀物の精米や製粉もしていました。 また、ワラビナワと呼ばれるワラビの根の皮をなって縄にしたものも売りました。ワラビナワは水に強い丈夫な縄で、重宝がられました。

水車が回るわらび粉小屋
小屋の内部

「唐臼小屋(バッタリ小屋)」
鹿威しのような仕組みで臼をつきました。

かつて飛驒の各地では、小さな谷川に天秤の原理を用いた唐臼(カラウス)を設けて、精米や製粉を行いました。水量の多い谷川などでは、効率のよい水車を用いて精米、製粉することが多かったのですが、水量の少ない谷筋では、唐臼が時折「バッタリ」と音をたてながら、のんびりと搗いていました。

大きな角材の一方を箱状に彫りこんで水をためる部分を作り、その反対側には杵(キネ)を取り付けます。水がたまると重みで下がっていき、反対側の杵が上がります。下がった拍子に水が落ちて軽くなり上に上がると、杵が下がっていき臼の中の穀物をつくといった仕組みです。飛驒の里の中で見られるシシオドシなども基本的に構造は同じで、のどかな音を里中に響かせています。

旧所在地
大野郡荘川村大字三尾河

「和紙漉き小屋」
山中(さんちゅう)和紙が製作されました。

飛驒地方で紙をつくりはじめたのは平安時代まで遡るとされています。室町時代、天文23年(1554)には、宮中で揚弓や碁の勝負に勝ったものの賞品として、飛驒紙を一枚ずつ与えたと伝えられています。飛驒産の和紙は寒さの厳しい冬、雪の中でコウゾをさらし、自然漂白してつくられるため非常に強靭です。よって古くから皇室や公家、そして当時の幕府のあいだで重宝がられました。

飛驒地方の中でも河合町を中心とした「山中(さんちゅう)」と呼ばれる地域で盛んに作られたことから「山中和紙」と呼ばれています。山中での和紙製作の特色として紙漉きを男性が行ったという点があげられます。旧吉真家の裏側には、紙漉きなど一連の作業をした紙漉き小屋やコウゾ蒸し小屋があります。

和紙透き小屋
和紙透き小屋内部
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